硫黄島の砂(仁壁神社内)     前のページへ戻る

山口市桜畠自衛隊訓練場の仁壁神社内にある江良神社前に「硫黄島の砂」が奉納されている。
因みに江良神社とはもともと「防長英霊塔」にあった「招魂社」に端を発する。戦後、社殿の荒廃が進んだため、昭和30年9月30日に仁壁神社境内に移され、境内社となって現在に至っているとのことである。(この項「Welcome to 神道講座」から引用)

硫黄島の戦いとは
硫黄島で戦った山口にゆかりのある部隊としては、昭和19年6月19日山口42聯隊補充隊で編成された独立速射砲第12大隊(膽7180部隊)があります。同大隊は編成後ただちに山口を出発し、22日には横須賀を出港した。その後7月1日に父島に上陸して直ちに任務につき、29日に父島を出港し同年8月1日に硫黄島に上陸した。下記の戦闘により3月16日武運つたなく玉砕全滅しました。(歩兵第42聯隊史より)
◆戦闘の経緯(陸戦学会「近代戦争史概説 下巻 第2節 硫黄島作戦」等から引用)
 硫黄島は東京南方約1200kmにある小島で飛行場に適し、マリアナを結ぶ戦略要地であった。米軍がこの島を手に入れると、東京を始め東部日本を爆撃するB29戦略爆撃機の基地として活用でき、また、戦闘機の援護を得ることが出来た。
 同島は栗林中将が率いる小笠原兵団が防備を担任し、109師団、145聯隊、その他約23,000名の兵員と120門の火砲、130門の迫撃砲等をもって防御し、約20kmに及ぶ坑道を構築し堅固な陣地で米軍を破砕する準備を整えていた。これに対し米軍は、サイパン島陥落以来20年1月までに機動部隊をもって12回延1,269機、基地航空部隊をもって69回延1,480機の空襲を行うとともに、海上艦艇延64隻を持って攻撃し、日本軍の弱体化を図った。超えて、2月16日米軍機動部隊は、延1,000機を持って関東地方に来襲するとともに、同島に対し艦砲射撃を開始した。以来連日熾烈な砲爆撃を加えたが、18日に実施したのは特に大規模で我が水際陣地と飛行場を破壊した。
 米軍は、2月19日0830優勢な砲爆撃の支援下に約130隻の舟艇を持って上陸を開始、1100頃には10,000の兵員と約200の戦車を揚陸した。上陸部隊は第4、第5海兵師団であった。これに対し我が守備隊は米軍の猛烈な砲爆撃を冒して強靭な抵抗と火力反撃を行い多大の損害を与えた。
 しかし米軍は、1日延1,000機に及ぶ飛行機の銃爆撃と、60隻に上る艦隊の砲撃を加えたため、陣地は破壊され、20日には海岸のトーチカは全滅し火砲は半減した。
 米軍は22日夕刻、橋頭堡を概設、新たに第3海兵師団を増強し、23日から寸土を争う激戦を展開した。米軍は孤島を海空から完全に包囲し、膨大な鉄量と火薬で我が陣地を逐次破壊していった。
 我が将兵は絶望的な戦況にも屈せず健闘を続けたが、3月3日頃には守兵僅かに3,500名になった。じ後複郭陣地を死守して奮戦したがついに力尽き、3月17日栗林兵団長は残兵約800名とともに出撃して壮烈な最期を遂げた。
 ◆この戦闘で、米軍は死傷者28,686名(死者6,821名)、我が軍は死傷者20,933名(死者19,900名)の損害を出した。攻撃側の米軍側が、防御側の日本軍の損害を上回ったことで有名である。奉納されている、硫黄島の砂は非常に柔らかく、上陸した海兵隊員は膝まで砂に埋もれ戦闘行動に多大な支障を与えたとのことである。また、すりばち山に掲げられた米国国旗の写真はその年のピューリッツア賞に輝いた。国旗を掲げた6名の海兵隊員のうち、3名が戦死した。日米両国にとって、大東亜戦争を通じて最も熾烈な戦闘であった。
 すりばち山に掲げられる星条旗

 硫黄島の状況については、石井 顕勇さんの「硫黄島探訪」をご覧ください。