山内和男氏からの寄稿文           前のページへ戻る

 
明治維新前後の男の群像 (日露戦争前夜を思う)

  1866(慶応2年)徳川幕府は、政権を朝廷に返上して王政復古がなり、新政府は明治4年から廃藩置県、明治6年1月徴兵令を公布し、岩倉具視を筆頭に政府要人を欧米に派遣し、封建体制を打破する新政策を次々に打ち出した。長州出身の兵部大輔村田蔵六は、大阪地区の兵学寮・兵器工廠・火薬庫等の検分に出張し、京都の宿で、不平浪士に襲われ<明24・9・4>軍事の天才は死去した。  
新政府では、征韓論が起き、西郷・板垣・副島・後藤・江藤参議が辞職し、西郷を支持する薩摩の将士百余名が帰郷し天下騒然となった。前原兵部大輔も萩に帰った。佐賀の江藤挙兵・萩の変が起き、前原・江藤も有為な青年を道ずれに死んだ。そして西南の役が起きた。
明治10年2月15日西郷隆盛は、南国に珍しい雪を踏み、政府にもの申すと15.000名の薩南健児を率いて鹿児島を発し、熊本に向かった。
熊本城には、司令官少将谷干城(土州)、参謀長中佐樺山資紀(薩州)、参謀少佐児玉源太郎(長州)、参謀少佐川上操六(薩州)、以下将兵2.584名。熊本鎮台の軍議の結論は籠城であった。

  当時乃木希典少佐は、熊本鎮台歩兵第14聯隊<長>心得を命ぜられ小倉に駐屯していた。13日乃木少佐に至急熊本に出頭せよと命あり、14日軍議に出る。20日久留米の乃木連隊長に谷少将より訓令あり、速やかに熊本城に入城。道を南関から高瀬の捷路を選び急行すべしと命ぜられた。
21日2個大隊を山鹿に発進させ、乃木も南関に達した。22日早朝から植木を確保すべく部隊を前進させた。植木は既に薩軍の先鋒が確保しており、乃木300の兵と激突して一進一退。夜、乃木軍は撤退した。この中に軍旗を奉ずる河原林少尉が帰らず兵に聞くと、本道最後の激戦で少尉は軍旗を巻いてこれを負い、刀を奮い敵に突入したと証言した。

  薩軍は分捕った連隊旗を熊本城の政府軍に見せびらかした。乃木は、参軍山県有朋宛に、待罪書と進退伺を出した。その後乃木は、肥後玉名村の戦いで左足貫通銃創を負い久留米で入院するが、病院を抜け出しモッコに乗って連隊を指揮し戦った。4月9日肥後の辺田野村で、更に左腕貫通銃創を受け、ひたすら軍旗喪失の責に苦しみ死を求めたが果たせず、4月22日陸軍中佐に昇進し、熊本鎮台幕僚を命じられた。明治10年5月に木戸孝允は「西郷もう大抵にせんかと盟友西郷を案じ」病死した。薩軍は明治10年9月24日西郷を始め全員枕を並べ全滅。日本は明治改革の中核たる有為な人材を無くした。
  明治天皇は明治11年正月、特旨をもって、14聯隊に再び軍旗を下賜された。

  明治11年5月14日新政府の中核であった薩の大久保利通が登庁中に刺客に襲われ暗殺される。

  乃木中佐は明治11年1月歩兵第一聯隊長に補され東上し、明治13年4月陸軍大佐に任じられた。明治16年2月東京鎮台参謀長を命じられ18年5月陸軍少将に昇進。歩兵第11旅団長(熊本)に赴任した。明治19年11月長州の乃木と薩州の川上少将がドイツ留学を命ぜられ、新興ドイツの陸軍の戦術・兵団の図上戦術・郊外での現地調査等の軍事学を徹底して1年有半勉強し帰京した。

  児玉源太郎は、嘉永5年(1852)2月25日徳山藩士児玉半九郎忠碩の長男として周防国徳山に生まれる。児玉家は徳山藩で150石を扶持され、父半九郎は河田氏の出で児玉家に養子に入り、父は剣術指南役の浅見家2男次郎彦を養子に貰った。父半九郎は、尊王攘夷を唱え名分を過度に正そうとして、佐幕派の重役に主張を退けられ、座敷牢に閉じ込められ憤死した。源太郎5歳であった。父の喪が明け次郎彦に長女ヒサを娶らせた。安政6年8歳の源太郎は興譲館に入学。
  元治元年(1864)禁門の変で、朝敵になった長州藩に追討命令が下され、長州は征伐され、四ヶ国連合艦隊は関門砲台を占領した。窮地に陥った萩の尊攘派は反撃した。徳山の次郎彦も同志と図り、俗論派の重鎮暗殺を謀り失敗する。児玉家は自邸謹慎を命ぜられ、次郎彦は親類の塩川と数名の刺客に襲われ絶命した。齢13歳の源太郎は凄惨な政治テロを体験した。児玉家は一人半扶持に格下げされ、邸宅没収1日玄米5合で親子5人は遠縁を頼り雨露をしのいだ。
  1864年12月15日高杉晋作は手勢80名を率いて、下関の藩会所を襲撃し、美東の絵堂に布陣していた<俗論派>を10日間の激戦で破り、毛利藩論を正義派が掌握した。
  徳山藩も、慶応元年6月29日次郎彦に赦免状が出され<殉難七士>の復権があり、児玉源太郎は中小姓で禄高25石を与えられ、3ヶ月後に禄高100石に戻された。
  明治元年(1868)9月22日、源太郎は献功隊第2小隊の小隊長として出征した。17歳の初陣である。主戦場は北海道にあり青森で越冬。明治2年4月16日江刺に上陸し、要衝二股口に迫る。敵将は土方歳三。2昼夜にわたり激戦し、源太郎は退却を余儀なくされた。政府軍は五稜郭を包囲し砲撃した。    5月11日榎本・大島が降伏し、函館戦争は終結した。
  6月2日献功隊は東京に凱旋した。選抜された者は残留してフランス式歩兵学を学ぶ事なった。
献功隊は源太郎以下13名。山口の整武隊は寺内正毅以下75名。長府の報国隊は乃木希典以下6名が抜擢された。11月5日フランス式練習生94名は、大阪玉造の兵学寮に移った。
  明治7年2月佐賀の乱が起き、児玉大尉は鎮圧軍参謀渡辺少佐の副官として出陣。2月23日大阪鎮台10大隊は壊滅寸前となり、野津少将は単騎抜刀して前線に躍り出た。児玉大尉も戦場を疾駆し、指揮旗を高く掲げて最前線の兵士を叱咤激励した。この瞬間児玉の右手甲を敵弾が抉った。児玉はひるまず旗を左手に高々に掲げ戦ったが2発目の敵弾が、左腕を貫通して脇腹に達し昏倒した。病院に収容された児玉は一時重態になったが、石黒軍医長の応急措置で1命を取り止めた。
  児玉は、明治13年4月中佐に進級し、千葉県佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊長に赴任した。当時
乃木中佐は、東京の歩兵第1連隊長で、児玉連隊と対抗演習をやり、児玉に1本取られる事があった。児玉は乃木より3歳下だが、乃木と児玉が終生友情を分かちあった。2人は、幼少の時代に苦労し、必要以上に「政治」に関わらず、権力闘争には己を持して、厳しく一線を画していた。
  この様に騒然とした多事多難な新生日本は、少ない予算の中で、小・中学校・師範学校を作り、先生と生徒を募集した。函館戦争から凱旋した兵隊を選抜して、下士官を養成する為94名を大阪の兵学寮に入れた。明治10年3月、西南の役の戦況を鑑み、陸軍士官学校一期生96名の歩兵科生徒を一年で士官見習に繰り上げ、東京・名古屋・大阪鎮台に配置した。兵科・騎兵科も動員した。教育未熟の2期生140名も動員され神戸待機とした。  

  5月4日陸軍士官学校3期生の募集合格者100名が入校した。この中に松山の秋山好古が「騎兵科」に入学した。明治16年2月好古は25歳で陸軍騎兵中尉に任官「当時の騎兵科は将校35名。下士官・兵551名」好古は明治16年4月7日陸軍大学校入校を命じられる。弟の真之が学生は何名かと尋ねると10名と兄は答え、兄さんは余程偉いと褒めると、お前は口数が多い。騎兵は少ないから選ばれたと弟を叱った。真之は大学予備門に入学するが学費が続かず困った。
真之は、築地の海軍兵学校を受験するに決め、試験に合格して兄も喜んだ。明治19年12月55名の生徒が海軍兵学校に入校。成績は1学年を終って首席になり、ずっと首席で通した。
  海軍は英国から教官団の派遣を要請し、明治6年7月団長ダグラス少佐、各科の士官5名、下士官12名、水兵16名が来日した。ダグラス少佐は英国海軍屈指の人材で、帰国後大将になった。
  真之達は、日本に居ながら本場の英国式海軍教育を受けた。真之は、明治23年7月に兵学校を卒業し、少尉候補生として「比叡2.284t」乗組み、明治25年5月に海軍少尉になり、翌年6月「英国製造の軍艦吉野の回航委員を命ず」で英国に渡り、27年3月広島呉軍港に回航した。真之は日清戦争で軍艦筑紫に乗船して出征した。
  明治30年6月26日秋山大尉は、米国留学仰せ付けられ、ワシントンの日本公使館に配置。米西戦争で、米艦隊がスペイン艦隊をキューバの軍港に封鎖を行い、汽船の自沈作業を真之は実見した。このキューバの米西海戦のレポートを日本に送った。これを見た海軍省・軍令部は、秋山大尉の戦術能力を高く評価し、連合艦隊参謀に選んだ。
政府は、明治17年ドイツに大山巖と桂太郎を派遣し、ドイツ陸軍の戦術・編成を学ぶため適任者の選考を陸軍大臣に要請し、参謀総長モルトケはメッケル参謀少佐を推薦した。明治18年3月から(1885~1888)陸軍大学校教師としてメッケル少佐が着任し、陸軍大学校の教育を一新した。編成・兵站・現地戦術など、日露戦争を勝利に導いた日本軍の高級参謀将校のほとんどは、メッケルの門下生であった。メッケルは、請われて3年間在日し、熱烈に陸軍将校を育成した。
  明治19年9月児玉源太郎大佐は、陸軍大学校幹事に兼補され、メッケルの陸軍大学校の教育を、良く聴講に来た。明治20年10月児玉大佐は、・監軍参謀長兼陸軍大学校校長に任ぜられた。
  19年6月松山の秋山好古は、陸軍騎兵大尉に任ぜられ、20年7月旧藩主久松家の定謨19歳が滞仏3年で、フランスのセシール陸軍士官学校に入学となり、その補導役を頼まれ陸軍の了解を得て、渡仏した。士官学校の聴講生になり、馬一頭購入し生活が窮迫したが官費留学となり、5年間騎兵を研究した。山県中将に、騎兵はドイツよりフランスが優れていると報告した。24年暮れに帰朝し、東京の騎兵1大隊の中隊長に補され、25年11月騎兵少佐に昇進し、26年5月騎兵第1大隊長になり、日清の情勢急を見て騎兵の戦術運用を試したいと第2軍の第1師団所属になる。  
  明治維新後の何回も押し寄せる国難を乗り越え、貧弱な国家予算を有効に使い、国難を跳ね返す国力を維持するため、有為な人材を選抜して外国に派遣し、先進国の法律・技術・軍事を学び日本に持ち帰り、人材を積極的に登用して近代日本の基礎を固めた。