山内和男氏からの寄稿文           前のページへ戻る

山内和男様の寄稿文第2回目です。

② 「長州藩が育てた男たちの生き様を偲ぶ。〔松本村の団子岩に登り思うこと〕」
 私が萩に赴任した昭和37年頃は、松陰神社にお参りする観光客も少なく静かな所で、神社を出て、左へ細い道を歩いて行くと、すぐ右手に伊藤博文公一家の家があります。そのまま道なりに上ると左側に玉木文之進宅[吉田松陰と乃木希典の叔父]がそのまま残っており、その横には石組した玉木家の田圃があります。玉木文之進は、松陰の実父杉百合之助〔杉家は禄高26石で半士半農〕の6歳年下の弟で10歳の時、石高40石の玉木家へ養子に行き、松陰は吉田大助〔実父杉百合之介の弟〕の養子になります。吉田家は石高57石で山鹿流の兵学者で松陰は6歳で家督を継ぎますが、義父が没し、義母が実家に帰り、松陰は生家の杉家に戻り、杉家の両親に育てられ、山鹿流も学びます。昼は農作業をしながら父や叔父から学問を習い、夜は米を搗きながら読書の生活です。乃木家と玉木家は宗支(本家と分家)の関係でした。玉木文之進の教育法も同じで、質実剛健をモツトーに古武士のような文武両道の先生でした。
松陰が5、6歳ごろ玉木先生に野外で勉強を教わっていました。本を読んでいる松陰の頬に虫が飛んできます。松陰がその虫を払い除けようと何回も手で払った。それを見た先生が烈火の如く怒り、松陰を殴る蹴るの折檻をしました。本を読むことは学問を身につけ天下国家のための公(おおやけ)の事で、虫が止まり痒いのは私(わたくし)ごとであり、お前はいま公私を混同したと諭しました。厳しい教育です。松下村塾を起こしたのは玉木文之進で、松陰がこれを引継ぎました。
 一方、乃木家は、江戸の麻生日ヶ窪の毛利佐京亮元周(五万石)の家臣で、乃木十郎希次(禄百五十石の江戸詰)は、毛利家の「お長屋」に住み、希典はその三男に生まれ幼名を「無人」と称した。父希次は、医師が本業であったが、武術に熱心で、弓・馬・剣・槍を修練した。安政5年(1858)2月、父希次は、長府藩主の世継ぎについて建白書を出したが、「藩主に不敬である」として執政が、希次を藩地差控として長府に転居させた。無人10歳、真人5歳、妹イネは生まれたばかり、父と無人は歩いて品川から京都まで130里を25日で歩き、船で長府に着いたそうです。
住む所無く、長府の乃木神社にある小さな家屋を世話して貰い住む。貧困の家族でありながら、無人は優しい少年だったと言われています。この叔父である猛烈な玉木先生に長府の乃木家の長子源三(幼名:無人のち希典)は、16歳の春[元治元年(1864)3月・池田屋事件の3ヶ月前]に萩に遊学を望むが、教育費が出せず父が許さなかった。源三は家出して18里の道を一日で歩き、玉木家の門前に立った。先生は、無断で家出した事。身体が弱いから武事を去り文事に向きたい理由に怒り。何故身体を鍛えないのかと叱りつけた。帰れと怒られ源三は夜、玉木家を出て歩いていると、背後から室:辰子に呼び止められ玉木家に泊まります。そして先生の許しを得て、2年間朝から暗くなるまで農作業を行い、夜は室:辰子の[日本外史]などを習読した。先生から戴いた松陰自筆の士規七則と、長府の父が写書した山鹿素行の[中朝事実]が送られてきた。源三の一生の愛読書になった。源三は萩の明倫館に入学し一刀流も学び慶応4年目録を貰った。源三は、慶応2年(18歳)の四月、恩師玉木先生に長府に帰り従軍したいと申し出た。先生と長府の父母も喜び、長府に帰った。
翌日から源三は隊伍に就き、練兵に加わった。6月砲一門の司令として豊前に出兵した。この時源三は名を文蔵と改め、小倉付近の戦闘では、奇兵隊の山県狂介の指揮下にあって進撃した。

 慶応元年(1865)正月20日、玉木家の長男彦助は山口県の絵堂の戦いで、正義派の御楯隊員として戦い、25歳で陣歿した。故に源三の弟12歳の真人[正誼と改名]を玉木家の養子に迎えた。
征韓論に同調した前原一誠兵部大輔も、職を辞し萩で前原党を作り、その参謀である弟玉木正誼は、小倉の聯隊長心得の乃木少佐の説得に何回も来るが兄は拒絶する。萩の乱は収束するが正誼は戦死し、玉木先生は萩の乱に加わった弟子の責任を取り、玉木家の墓前で自決された。墓前に石柱の灯篭あり乃木希典と刻銘あり。
乃木希典少佐は、吉田松陰の死、恩師玉木先生の自決、弟正嗣一族の滅び行く姿を凝視し、乃木の武人としての苦難はここから始まったと思います。玉木文之進先生宅から少し上り、3左路を右に坂道を登ると萩の東郊、松本村の団子岩と呼ばれる所に上ります。右に吉田松陰が天保元年(1830)8月4日に生まれた小さな屋敷跡が敷石の表示で判ります。萩が眼下に見え、城があった指月山と日本海が良く見えます。人は生まれ育った環境で人生観が変わると言いますが、松陰は眼下に萩を見下ろし、世界観と宇宙を考えたのではと思うほど素敵な景色です。
この団子岩から小さな松下村塾の屋根が見えます。学費を取らない塾で誰でも入塾させ、熱烈に人としての生き様を教え・実践に徹した行動を要求した教育が生まれたのは、貧乏な杉家の努力があり、松陰の考えを誰よりも理解した小さな世界があったのだと思います。  
また、玉木先生宅の屋根と田圃が見えます。源三は百姓を経験していません。鍬や農機具の扱いも判らず16歳から18歳にかけて多感な青年時代を玉木家で過ごし、壮絶な実践教育を受け、武士道を学んだと思いま 玉木家墓の次は杉家の墓があり、少し下ると、松陰の没後百カ日の万延元年2月7日に先生の遺髪を埋めた墓碑〔松陰二十一回猛士と刻銘〕があります。墓前の花立てや、石灯籠には17名の門下生の氏名が刻まれています。
 松下村塾の床の間には聯〔読みは〈れん〉と読み孟宗竹を二つに割り、漢詩等を彫る〕が掛けてあります。右聯【万巻の書を読むにあらざるよりは いずくんぞ 千秋の人たるをえん】と読み、〈多くの本を読み、勉強しなければ、どうして名を残すような立派な人になる事が出来ようか、しつかり勉強しなさい〉と教えられました。左聯【一己の労を軽んずるにあらざるよりは いずくんぞ兆民の安きをいたすをえん】と読み、〈自分一己の事も骨身を惜しまず働くようでなければ、どうして多くの人のために尽すような立派な人になれようか〉と教えられました。
松陰先生は、江戸に送られて実家を出る時、6行の漢詩を書いて家人に渡します。
 【至誠にして動かざる者、いまだこれ有らざるなり〈孟子の教え〉吾れ学問すること20年 歳もまた而立〈30にして立つ〉なり 然れども未だこの一語を解することあたわず 今ここに関左の行〈江戸幕府に呼ばれて行く〉願はあくば身をもって之を験さん すなわち死生の大事の如きは しばらく置く。己末〈安政6年〉の五月 と壮絶な覚悟を書きました。獄中で書いた留魂録には【身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂】と国の変革の志は残すぞと強い闘魂が見えます。そして永訣の書では、【親思う心に勝る親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん】父母を思うやさしい松陰の心があります。この様に繊細で剛直な一面を持ち、死んでも弟子達に影響を与えた松陰先生及び玉木家・杉家の昼は農作業しながらの厳しい学問の教え、夜は米を搗きながらの読書など剛直な古武士を養成する伝統があったと感じ、そんな空気が松本村に充満していました。
当時日本のどんな貧乏な所でも、子供は親を敬い家事を手伝いながら懸命に勉強しました。団子山に上り、小さい松本村を見て、ここで素晴らしい教育〔人間形成〕が行われた事を誇りに思いました。そして明治維新以来の国難を克服した日本人の原動力の根底は質実剛健にあるのではと愚考しています。日露戦争の203高地の苦闘、乃木と児玉の友情また大山元帥の統率を思い、日本人は素晴らしい民族だと、いつかは203高地を踏みたいと念願していました。